令和4年度(2022)サロン情報
令和5年2月9日(木) 第7回「二木サロン」を開催
テーマ
建築物緑化技術の現状
話題提供者
山田宏之
大阪公立大学農学部教授
かつては都市緑化技術開発機構が「特殊環境の緑化」の研究を深め、当時敏腕を振るっていたのが山田宏之研究員であった。屋上緑化・垂直緑化・道路緑化・室内緑化・アトリウムはもとより、水面・地下などあらゆる空間に緑のクサビを打ち込む研究が謳歌された。
造園技術もコニファー・カバープランツ・洋花などが導入され、荒木芳邦はこうした技術をドイツの公園における庭園の国際コンペで採択され、日本の文化を高めた。それが大阪花博に結実し、「花と緑」のグランドデザインが社会にアピールされ「緑花」が顕在化した。
並行して1万キロを超えるNEXCO高速道路の緑化事業は道路環境問題対策のトリガーとしてエコロード・緩衝緑地・自然再生緑地事業の先陣を切り、URの大規模ニュータウン事業、国営公園事業と共に、わが国の緑化事業を牽引した。追い風は地球温暖化と都市防災対策として、気温の抑制、CO2の固定、防火帯、避難地などの緑化が効果的であることは明白で、近年ではグリーンインフラとして国土形成計画に盛り込まれている。
兎角、今日では山火事・地震・津波などが大規模化し、緑化の防災意義が問われている。和歌山県広川町の江戸時代における安政の津波時に濱口梧陵が造った緩衝緑地は今も機能している。滋賀県愛知川の八日市市流域の河畔林は暴れ川を抑え市民を守って来た。こうした古の業を活かし、新規技術を組み合わせた緑化技術が待たれるところだ。
本日お招きした大阪公立大学山田宏之先生が執筆される、環境緑化新聞の「都市環境とみどり」は387回を迎え、まさに人生そのものが「みどり」とともにあり、本日は海よりも深い「みどり愛」について語って頂く。 4月からのNHK朝ドラ「らんまん」の主人公、牧野富太郎を彷彿させる。
令和4年11月10日(木) 第6回「二木サロン」を開催
テーマ
外国庭園の荒廃を日本の伝統技が救う
話題提供者
北田直輝
関西植木株式会社取締役
NPO法人国際造園研究センター理事
日本庭園は海外で人気が高く、昭和を代表する造園家荒木芳邦(1921〜1997)は主にドイツ、キューバの公園・大学に、中根金作(1917〜1995)はボストン美術館等に作品を残す。しかし、外国庭園は王宮貴族に代表されるよう幾何学的・整形的な庭が主流で、饒舌な空間は本来の庭ではあらずと、ルソーが「自然に還れ」を提唱し、風景式庭園が誕生した。産業革命後、ニューヨークに移民が押し寄せ、齢を重ね母国の風景を懐かしむ哀愁の念に駆られ、それを鑑み、コンペで採択されたのがフレデリック・ロー・オルムスティツド(1822〜1903)の風景式のセントラルパークだ。
一方、わが国では須弥山蓬莱などの思想の元、山紫水明・花鳥風月・木石砂の池泉・枯山水式庭園が発達した。それは奇遇にも、ルソーの自然を模写した風景式庭園と相通じるところがあり、わが国は、独自の「縮景」の技法を駆使し、深山幽谷大海の景を創作したのである。こうした技術が海と時を越えて普及し外国の方々を魅了して、今日、多くの日本庭園が作庭されたのであろう。
ところが、近年管理が滞り、荒廃が顕在化した。無理もない、自然の景を飼い慣らして、人工の景に押し止めるには定期的な管理が必須で、そこには樹芸・エージングが求められる。しかし、日本人の手が離れた名園は荒廃の道を辿るしか、なかったのである。
そこで日本造園組合連合会が立ち上がった。当会は日本庭園の蘇生に尽力する造園団体で、全国の荒れた庭園を整備し、蘇らせるのが造園家の社会貢献と捉え、定期的に活動している。この国際版が、この度のアメリカでの活動で、若手造園家が派遣された。樹木の見立て・配植、刈込・剪定、石の組み方・積み方、流れ・池泉の意匠などに伝統技術を見て、派遣された北田直輝達人が熟練の技を披露した(2019年10月6日〜2019年10月13日)。
令和4年10月13日(木) 第5回「二木サロン」を開催
テーマ
橿原神宮の森を蘇らせる
話題提供者
浦﨑真一
NPO国際造園研究センター理事
大阪芸術大学建築学科准教授
橿原神宮は、明治23(1890)年に政府より京都御所賢所および神嘉殿が下賜され、官幣大社として創建されました。その後、昭和15(1940)年の紀元2600年に際し境域が拡大され、明治神宮の森にならい、明治神宮の森づくりにたずさわった技術者によって橿原神宮の森がつくられました。
80年あまりを経て森は成長してきましたが、近年、気候変動、環境の変化、管理不足等により一部課題がみられるようになっています。そのような状況にある橿原神宮の森を健全な森へと蘇らせるため、大阪芸術大学の浦崎先生は、現況を調査し課題を特定するとともに、人工林の再生にむけた計画を提案されています。
令和4年9月8日(木) 第4回「二木サロン」を開催
テーマ
奈良公園は何故できたのか
話題提供者
奥田 篤
NPO国際造園研究センター理事
奈良公園事務所整備課長
1880年に産声を上げて以降、鹿と大仏に代表され、国内外に広く知られている「奈良公園」。「奈良公園」は何故、この場所に成立したのか?
それは、古くから「南都」と呼ばれていた観光都市奈良、天平の昔から大和国の中心であった三社寺(春日大社・興福寺・東大寺)と切っても切れない関係があります。
奈良公園は修学旅行・遠足の地として知られ、4月に大阪府立能勢高等学校が奈良の歴史に関心を持ち、新一年生の学外課題地に選び、奈良公園での野外授業、奈良町視察を行いました。
今回の二木サロンは、この時の授業内容を中心に、成立から140年を越えて今に至る「奈良公園」誕生の歴史についてのお話。
(県立都市公園奈良公園 面積:511.3ha 年間利用者数:1300万人)
令和4年6月9日(木) 第3回「二木サロン」を開催
テーマ
御堂筋イチョウ並木へのラブストーリー
話題提供者
大槻憲章
NPO国際造園研究センター常務理事
元大阪府公園課長
株式会社公園マネジメント研究所技術顧問
何処の誰かは知らないが、誰もが知っている。御堂筋のイチョウ並木と来れば、雨の御堂筋、たそがれの御堂筋、大阪ラブソティに歌われ、大阪市民の心を捉える。造ったのは六代目大阪市長の関一だ。大阪市長就任直後、ニューヨークに飛び、道路と公園の重要性に気付き、帰国後整備したのが御堂筋と大阪城公園だ。難波と梅田を繋ぐ御堂筋の幅員44m、距離4.0kmの六車線道路は、当時の市民から「飛行場でも造りはんの?」と声があがった程で、地下鉄が併設された。ブールバールの先駆けでもある。これが大大阪の起爆剤となり、一時、大阪は東京を抜いて日本一の大都市に躍進したのである。今日では北摂まで伸び、幹線鉄道として大阪を支える。
そこに植えられたのがイチョウだ。当時の写真を見れば、道路に鉛筆が立つようであったが、今日では天蓋の緑陰を形成し、パリ凱旋門前のマロニエの並木に劣らない。わが国でも東京駅前の行幸通り、明治神宮絵画館前の並木は何れもイチョウで、街路樹番付の横綱を張る。それは円錐形の樹形、樹勢強健に他ならない。銀杏の異臭に首を傾げる人もいるが、圧倒的な人気だ。
何と言っても、歩く楽しみがある。涼風を受ける緑の景観はデートに最適で誰もが利用したはずだ。かつては百尺景観と言われ、両サイドのビルは高さ規制を受け、スカイラインが揃った都市景観は品格がありモデルにもなったが、今日の人口呼び戻しで、公開空地制度の導入、高さ制限の緩和で、高層建築がそそり立つ。足元を見ればエルメス、ルイ・ビィトンなどの店舗が並び、御堂筋の魅力は大変わりした。しかし、変わらないのがイチョウ並木である。夏緑高林、錦織彩景は大阪の普遍的な景観だ。近年ではイルミテーションに輝く夜景を見るが、緑の本質論を疑われよう。
広く大阪府の公園行政を司られた大槻憲章様をお迎えし、こうした御堂筋のイチョウ並木をはじめ大阪の緑に関するお話。
令和4年5月12日(木)第2回「二木サロン」を開催
テーマ
戦争と地震 : 太平洋戦争と三河地震の体験から
話題提供者
三浦頼彦
国際造園研究センター理事・元大阪府公園課長
当センターの三浦頼彦理事をお迎えして、幼年時(44歳7か月)の三河地震に遭遇されたおぼろげな記憶を辿り、語って頂きます。このところ地震が東北・九州・近畿と頻発し、東南海地震の前兆かと危惧されるところです。それらは三河地震に繋がっているのでしょうか。第二次世界大戦終戦半年前、昭和20年1月 13日の深夜3時に起き、マグニチュード6.8の直下型地震で2000 余人のお方が亡くなられています。
あれから77年、阪神淡路大震災、東日本大震災の記憶が新しいところです。その間、建築土木の耐震構造・都市防災技術は飛躍的に進化したものの、昭和20年時の日本は、建築は木造主体で、鉄骨・コンクリートの橋などの耐震構造も十分ではなく、三河地方には未曾有の被害をもたらしました。その時の揺れ、避難は暗闇の中で、さぞかし恐ろしかったものと推察します。
しかも戦時中で、ネットによれば昭和19年12月に東南海地震が起き、翌週には大規模空襲があり、名古屋市・岡崎市は甚大な被害を蒙りました。正に三河地方は戦争と地震の最中にあり、わが国特有なものとは言え、その恐怖感は筆舌しがたいところです。それは時代が変わろうとも、怖さは変わりありません。ここは三浦様にお聞きしたいところです。
三浦様は大阪府公園官僚として公園整備・緑化推進業務に携われ、大阪万博・グリーングロー大阪・大阪花博・緑の基本計画などの広域緑地計画、そして近年では防災公園事業を牽引されました。とりわけ阪神・淡路大震災以降は、防災公園整備の機運が高まり、久宝寺緑地などが広域防災公園の先駆けとして、三浦様のご指導の元に進められ、今日の大阪府防災公園行政の根幹をなすところです。
こうした三浦様のご体験と、昭和・平成・令和に至る公園行政の変遷を捉え、わが国は常に地震・火災・津波などに隣り合わせていることから、これらを意識した国土形成が望まれるところです。
令和4年4月14日(木)第1回「二木サロン」を開催
テーマ
荒木芳邦の薫陶とお庭造りの魂
話題提供者
柳原 寿夫さん
(株)スタジオ・アーバン・スペース・アート 代表取締役
4月のサロンはスケッチの達人柳原寿夫さんをお招きします。
師匠の荒木芳邦先生はいち早く庭造りに洋花・コニファーなどを導入され、勝尾寺などの名園を手懸け、ドイツ・キューバからも庭造りを頼まれ、日本庭園の普及に尽力されました。現場で石を組む様子は正に鬼神そのもので近寄り難いものでしたが、荒木の技術・人間性を慕い、荒木ファミリーの結束力は固く、その中枢が柳原さんです。
気難しい荒木はスタッフの描いたプランが気に入らず、明日に迫った打ち合わせもお構いなしに変更されたとそうです。深夜に聞きつけた柳原さんはスケッチを描き、翌朝荒木のデスクに置いてスタッフは打ち合わせに行かれました。荒木に笑顔が戻ったのは言うまでもありません。
荒木芳邦の元には国内外より多くの人が集まり修行して、今日造園界で活躍されています。荒木の下で学んだことは何か、それは「お庭造りの魂」ではないか。その極意を学びたい。

